11月祭廣瀬浩二郎講演会2011

2011年11月に行った廣瀬浩二郎さんの講演会の内容を、本人に許可をとって以下に掲載させていただきます。

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まだ昭和という時代で、現役の人はまだ産まれてなかったのかな。僕が京大に入ったのは1987年です。全盲の学生が京大に入るのも、受験するのも、当時初めてのことでした。その後東大とかには何人か点字を使う全盲の学生が行ったりしてますけど、京大はまだ点字を使って受験して、という例は他に無いと思います。

点訳サークルで講演をするのは確か今回で3回目です。1回目は現役の時、僕が三回生の時に講演をしました。それは主に点訳サークルの新入生対象みたいな感じで割と内向きの公演でしたね。2回目は10年ぐらい前でしょうか、やっぱりNFで呼んで頂いて、昔話をした記憶があります。当然ですけど、大学入ってもう今は20年以上経ちますので、長く生きている分、お話をすべき昔話も段々増えてまいりました。だからだらだらとしゃべっちゃうと思うんですけども、今日はまあ、こういう会ですし、OBの方で久々に京大に来てくれた方もいらっしゃるせっかくの機会です。講演の後も、普通の講演会の質疑応答みたいな感じじゃなくて、みなさんにざっくばらんに色々と話してもらったり、情報提供をしてもらったりと、和やかな交流が出来ればいいかなと思っています。そういう雰囲気を作るためにも、なるべくあんまりしゃべりすぎず、楽しいお話をしていければと思います。

それでは、レジュメに沿ってお話をしていきます。今日のキーワードとしては、レジュメにもありますように、「共生」、共に生きる、それから最近僕が使ってる言葉でまだあまり普及しておりませんが、「共活」。これは「共に生きる」に対して「共に活かす」という意味の言葉です。共生と共活、共に生きる、共に活かすという言葉をキーワードにしてお話をしていこうと思います。

では最初は簡単に生い立ちのお話をしていきます。僕は小学校の時はまだ視力が多少ありまして、いわゆる弱視という状態で地域の学校に通っておりました。今のように便利な機械はありませんでしたけど、普通の教科書をレンズを使って読む、教室の一番前の席に座って黒板の字をレンズを使って読むという方法で強していました。しかし高学年になると教科書の字が小さくなり、また、やこしい難しい漢字も出てきて、教科書が読みにくくなってきました。今みたいに拡大コピーが簡単にできる時代ではなかったので、マジックで大きくノートに書き写してもらったりして読んでいました。

そういうところで、ちょっともう普通の学校で勉強するのは限界だなあと、中学から盲学校に行くことにしました。その盲学校で、今日の一つのテーマでもあります点字というものに出会います。ここにいるみなさん、点訳サークルに所属したことのある方が多く、実際に点字を触ったことがあると思います。目で見ると6点の組み合わせで一応規則性もあるので割と簡単そうに見えるわけですけども。いざ目をつむって触ってみるとやっぱり中々難しいと思います。その理由は色々あると思いますが、その一つを単純に言えば触覚、つまり触るということを普段あまりしてこなかったので、いきなり触って読めと言われても中々分からないということです。もちろんぼくも最初は触っても全然わからなかったです。ただまあ、それを読まないとどうしようもないので、毎日しょうがねえなしょうがねえなと思って触っていました。大体の視覚障害の人に共通してるんですけど、段々わかるようになるというよりもある日突然、あ、読めた、というふうな感じになります。だからもう読めねえや読めねえやと思って毎日しょうがなく触っていたら、ある日、あ、なんとなくわかるぞ、という日が訪れました。そして勉強するうち、あ、これはやっぱり便利だ便利だと、点字の読み書きに段々慣れていきました。

中学は盲学校だったので、教科書は当然点字、普通の中間試験や期末試験というのも点字で読んで点字で回答します。それに慣れていく中で点字というのは非常に便利だし、目が見えない人がこう、自分で読み書きすると、いうことではこれに勝るものはないなあということを中学高校時代を通じて感じました。

よく言うんですけども、点字を覚えるっていうこと自体は割とそんなに苦労がないと思うんです。さっき言ったように割と規則性があるので、点訳サークルに入って点字の50音とかを覚えるのとかはローマ字を習ったりするのと同じ感覚で割と最初は楽しいなあと。特に京大のサークルの人なんて優秀な人が多いので見てすぐ法則性をつかんですぐ覚えるということは出来ると思います。問題なのは点字のマス開け、分かち書きです。大体ここで躓くというか嫌になるパターンが多いです。点字をご存じでない方もいらっしゃるかもしれないので説明しますね。平仮名ばっかりで書かれた文章というのを想像して下さい。平仮名ばかりで書かれていると言葉がどこで切れているのかわかりません。なので、その文節、まあ昔よく「ね」というのがはいるところ、というのをやりましたよね。僕の「ね」、名前は「ね」とかっていう感じで、「ね」がはいるところで開けるとか。基本は文節のところで空ける、スペースを空けるわけですけども、そもそもその文節っていうのも学者によって色々説があったりしますし、日本語っていうのは、客観的に見てすごく難しいし曖昧な言葉だったりするので、なかなかそのマス開けや分かち書きの法則というのがきちんと決まらない。すると、こんな面倒なことはもう嫌だということになってしまう人が結構います。これはまあやむをえないことだなあと良く思いますが。文節で切らないといけないというのはわかるんだけど、もう少し合理的に、もう少しなんかいい法則は出来ないものかと思うんですけどね。

(パソコンがしゃべりだす)

時々しゃべります。我が家でも時々パソコンがしゃべるんですけど、僕が大体一人でパソコンを使ってる時にしゃべってます。当たり前ですけども電気をつけない部屋でやっていますので、そうするとなんか夜中とかに暗闇でパソコンがしゃべってかなり不気味だったりします。

話を戻しましょう。分かち書きというところで躓くということが多い。僕も点字の読み書きというのは割とすぐ、中学生の時に習得したんですけども、やはり分かち書きっていうのが良く分からない。当初、ずっと墨字、普通の文字を使ってましたので、別に分かち書きなんてなくたって通じるじゃないか通じればいいやという感じでいました。ちょっと偉そうですけども、俺が書いた点字なんだから先生が解読すればいい。日本語なんだから読めないはずはないだろ、みたいな感じでほとんどマスを開けずに、先ほど言ったようにひらがなをだーっと書くようなイメージで書いてました。やっぱり国語の先生には、こんな点字じゃ世の中に出てから誰も読んでくれないからちゃんと分かち書きを勉強しなさい、と色々厳しく指導されたんですけども、結構僕もめんどくさがりというか頑固で、通じればいいんだわかんないと言いながら先生読んでるんだから大丈夫やろみたいな感じでいたんですよね。

よく話すんですけども、中学3年生の時にちゃんと分かち書きを勉強した決定的な出来事がありました。今の人はもう、ラブレターとかいっても携帯とかで書くんでしょうけど、僕たちの時にはまだパソコンが出回っていなかったので、もちろん手書きなんですよね。中3の時に初めてラブレターというのを書きまして。その時、必要は発明の母でもないですけどもやっぱり、これはやっぱり、ラブレター。当然、目の見えてる人もきれいな字で書こうとか漢字を間違えないで書こうとか思うんでしょうけど、それと同じで僕もきれいな点字を書こうと思いました。それまで全然必要ないと思っていた点字の規則というのをはじめてそこで真剣に勉強して、勉強してからやっとラブレターを書いたという記憶があります。まあそうやって、一応動機は多少不純かもしれないですけども、ずっと中高の6年間、点字での読み書きやその勉強をしていきました。

次にパソコンによる自動代筆についてお話しします。自動代筆という言葉、ちょっと聞きなれない言葉だと思います。基本は先ほど言ったように点字を使って読み書きをしているわけです。テストの出題も点字解答も点字、後で触れますけども大学入試も全て点字で出題されて点字で回答するという方法でした。でも、実は高校2年生ぐらいの時に、パソコンというのが本当の意味でパーソナルなものになって、世間に出まわり始めたんですね。若い人はご存じないと思いますけど、NECの98の前は88というのがありまして、その88っていうのがまあ、あの、ちょっとお金持ちの家ではNEC88なんかを買って家で使い始めた、という時期です。で、そのパソコンというものを使って目の見えない人が文章を書くということが始まりました。ですのでまあ、京大入ったのが87年ですから大体80年代前半ぐらいからパソコンを使って目の見えない人が墨字を書くということが行われるようになってきます。それを称して自動代筆。今まで代筆っていうのはだから目の見えない人が例えば点字で原稿を書いて、それを点字の読める目の見えている人に渡して、僕ら墨訳なんて言葉を使いますけど墨字に直してもらう。あるいはもっと確実なのは、点字で原稿書いて、それを読み上げて、それを墨字に書き起こす。これがまあ代筆ですけども、人の手を介さずにパソコンを使えば自動的に代筆が出来るんじゃないかという意味で、自動代筆という言葉が使われます。

さっきパソコンしゃべりましたね。今当たり前のように音声パソコンというのが視覚障害者の間に出まわっています。でも当時のパソコンはしゃべりませんでした当たり前ですけど。当時どうしていたかというと、キーボードを僕ら目の見えない人ががしゃがしゃと打つ。そうすると確かに画面に文字は出るわけです。でも画面に出た文字を確認できないので、ボランティアの人に来ていただいて、その画面を見てもらって、この字で正しいですか?いや違いますね、じゃあもう一回変換押して、この字ですか?これです。で確定を押すとか。結局新しい機械というのでキーボードを使って入力はしているけど、つまりは目の見えてる人に画面を確認してもらわないと字が描けないというわけで、考えてみたらこれは別に、点字を読み上げてそれを書きとってもらうのとあんまり大差がないな、という。自動代筆といってもまあ、要は人の手が必要なんだなと思っていました。

ところがまあ、今でもはっきり覚えてますけど、高校2年生の夏休みが終わって、学校に行ってみると、パソコンがしゃべったわけです。もうWINDOWSになってからはパソコンそのものが音声を出すようになってますけども、昔MSDOSとか言っていた時代は、まだ、音声合成装置っていう特別の大きな機械をパソコンにつないで、その音声合成装置に喋らせるという事をしていました。ただそれでも一応、キーボードをAだったらAと押せばAとしゃべってくれました。ただ、まだ発明された当時は色々こう今よりだいぶ不便で、だいぶ時差がありました。Aを押してから0.5秒ぐらいしてぶちっと押して、A、ぐらいの感じだったので、だからばばばばっと打つとすぐとまっちゃったりしてましたけど、それでもこう自分が打った字を音声で確認できるっていう時代になったってことは、随分これは、機械、ITというものが出てきたことによって視覚障害者の世界が変わったなあということを実感しました。

ということで、それまでは点字で読んで点字で書いてということが当たり前でしたが、1980年代初めぐらいに、最初かなり制約がありましたけども、パソコンによって墨字、普通の文字が読み書きできる可能性が出てきました。ついでに言うと、あと二つパソコンで僕がカルチャーショックを受けたことがあります。一つ目は今言ったように、およそ不可能だと、あり得ないと思っていた目の見えない人間が普通の文字を読み書きするというのが、パソコンを通してできるようになったことです。二つ目のカルチャーショックは京大に入ってすぐだったんですけど、パソコン通信でした。当時まだインターネットって実用的には使われてませんでしたけど、NIFITYとかそういうので。そのパソコン通信で、今風に言うとチャットみたいなのがありました。ほぼリアルタイムでいろんな人が意見交換できます。そこで僕が初めてパソコン通信を見たときに、偶然ですけど全盲、全然目が見えない人と聾の人、全然耳の聞こえない人がほぼリアルタイムでパソコン上で意見交換をしているという場面に出会いました。

考えてみたら手話、聴覚障害、耳が聞こえない人と、その視覚障害、目の見えない人というのは確かに今の行政上の割り振りでいうと障害者というくくりでくくられているわけですけど実は、単純に考えると一番遠くにいる人たちです。僕たち眼の見えない人というのは当たり前ですけども音が頼りです。あるいは触るっていうこともそうですけども。普段のコミュニケーションでは目が見えている人以上に音、声というのが大切です。それに対してご存じのように聴覚障害、聾の方っていうのは、手話とか指文字、あるいは口話、ですから普通の人、目が見えている、健常者と言われているひと以上に視覚をたくさん使っている人たちです。

普通の人以上に耳を使っている人と普通の人以上に目を使っている人ですから、まあそういう意味では世の中でもしかすると一番遠くにいる人同士だと思います。で、実際僕もこの間体験したんですけど、10月末に職場の民博でシンポジウムをしてですね、そこに聴覚障害、耳の聞こえない方が来られてですね。ありがたいことにメールのやり取りというのはなんの支障もなく、目の見えないぼくと耳の聞こえない方の間でメールのやり取りっていうのは何の不自由なく出来る。だから、こういうシステムで情報保証しますととか、シンポジウムの事前に随分いろんな打ち合わせをしてですね。メールを頻繁にやり取りするうちすごく仲良くなっていろんな話をメール上でしました。実際当日初めてあって、固い握手を交わしたまでは良かったんですけど、その後、色々言いたいことがあるんですけど、さてどう伝えたらいいかって。難しいですよね。普通だったら筆談をとかの手があると思うんですけど、筆談が中々通じない、まあしょうがないからお互いに手をぎゅーっとにぎりあって。おっさんの手だからあんまり長くは握りたくなかったんですけど、この場合しょうがねえやと思ってずーっとにぎってこうなんか振り回してこうお互いにペコペコぺこぺこしてて、よそから見たら間抜けな風景だと思いましたけど、まあそういう、 それはそれでいいコミュニケーションだとは思うんですけど、中々こう通じないもどかしさみたいなのは感じました。最後帰られるときに、その聴覚障害の方が僕にこう一応お礼というかありがとうございましたって何度もこう頭を下げてくれまして。どうもありがたいことに僕の本を買って下さっていてですね。本にサインをしてくれって言いたかったらしくて、向こう多分それぐらいは通じるだろうと思って、僕の手のひらをとって、こう、後で振り返ればなんてことないですが、片仮名でサインって。

今日点字の展示の教室の方で、点字以前の文字っていうのが並べられてますので、是非この後見ていただけたらと思います。点字が生まれる前にあった墨字を浮き上がらせた文字っていうのを苦労して手作りしたそうですけど、僕ら目の見えない人間にとって線の文字を読み取るっていうのはなかなか難しいです。で、確かに僕もカタカナとかひらがなの形はもちろん知ってるので、今から手のひらにサインって書きますよーってサインって書かれたらよく分かると思うんですけど、いきなり手のひらとって、割と大きめに書いてくれたんですけども、それでもなかなかわからなかったです。そもそも感じなのか平仮名なのか片仮名のかもわかんないしなんか書いてるな、どうも3文字見たいだけどなんだろうとか思ってて、2分ぐらいそこで押し問答というか通じない通じないとやっていて、やっと最後で、あ、サイン!とかってやったんですけどもまあそのコミュニケーションが通じたときの嬉しさっていうのがある半面、ああ、大変だなあみたいなことを感じました。

だいぶ横にそれましたけどもその、日常生活では多分一番遠くにいる人たち同士が魔法の箱であるパソコンというのを介すると、コミュニケーションが出来る。それが二つ目のカルチャーショック。パソコンはやっぱりすごいし便利なものなんだなあというのを感じました。で、そこに完全参加と平等っていう、もう古い言葉ですけど国連が提唱した1981年国際障害者年のキャッチフレーズです。いまだに多少の問題はありますけどやっぱり障害者って言われてる人たちのことであるとか、もっと広くマイノリティー、少数者の立場の人たちのことを考える場合、完全参加と平等っていう言葉は美しい言葉だし、理想だなあというふうに思うんですけど、まさにその、僕自身この言葉を聞いた時、これは素晴らしいしこうあるべきだと思っていました。盲学校という目の見えない人ばっかりの世界にいましたので、やっぱりこれは社会から隔離っていう言葉は強すぎますけど、目が見えてる多数派の世界からは離れた世界にいる。自分は是非その多数派と一緒に生活をすべきだし、また、そういうことができるんだというふうに思っていました。

自分なりの完全参加と平等っていうのを具体化する、というか実現する一つの大きな自信になったのが、京大の入試ということになります。もう昔話ですけど、京大を2回受けています。つまり1浪したんですけど、1年目っていうのは当たり前ですけど、高校生時代っていのはそんなに、勉強しないですし、まあ盲学校っていうのはのんきな学校で、あんまり今の大多数の京大生が出身であるその進学校みたいなところとは全然違ってですね、受験勉強なんてのはまったくさせないですし、まあその分僕もクラブ活動と化を色々やってですね。いわゆるありがちな言葉ですけど青春を謳歌したっていうか、今だいぶおっさん体型になっちゃいましたけど、昔は陸上部で走ってたりですね。単純な発想でスポーツをやって文学青年っぽいことをやったらもてるにちがいないとか思って。高校時代は詩のクラブっていってポエムのクラブで詩集を作ったりして、非常に楽しい高校時代を送ったんですけども、当たり前ですけど受験勉強をほとんどしない。高校3年になってやっとそろそろ、と始めましたけど、当然間に合わずに一年目は落っこちました。 今でも覚えてますけど、2年め1浪して受けた時もそうですけど、僕は数学が全然できませんで、2次試験の京大の数学で、ほとんど何も書けなくてですね、で、何も書かずに出すのは癪なので、証明問題でなになにを証明せよって手も足も出ないからもうしょうがないからこれは証明するまでもなく自明であるとかってまあそんなんで通るわけもなく、まあおっこちまして。ただ、今でもこうすげえプレッシャーだったことを思い出すんですけど、先ほど言ったように僕は京大を受けた初めての全盲学生です。10月ぐらいに京大から呼び出しがありました。真剣に視覚障害学生が受けるらしいということで、京大としても検討するわけです。学内で検討して下さる。やはり受け入れた事例が無いので、その過去に。東大なんかは何人かいたので東大なんかに問い合わせをして、全盲の学生来たらどういう設備をしたらいいのか、点字ブロックを敷設するとか点字の資料をどう用意すればいいのかとか、そのへんを他大学に聞いたりするんだけど、やっぱり一度それは本人に意見を聞いて、どんな奴が来るのか見とかないといけない。こちらからしたら合否が決まって合格してから話を聞けばいいのにと思うんですけど、当時は3月の18日とかだったっけ?ぐらいが合格発表でしたからそれから捕まえて準備をするっていってももう4月ですから半月しかないのでとても間に合わない。ので大学としては半年前ぐらいの10月から色々検討して。京都に呼び出しをされてですね、こちらは偉い京大の先生がずらっと並んで、文学部の先生が並んで、色々と質問をするわけです。当然ですけど先生方みんな入った後の話をするわけで段々おかしくなってきて、しまいには僕はあんまり勉強してないから多分今年は入りませんよとよっぽど言いたかったんですけど、一応こっちもまだ十代でしたので、大真面目にはい、はい、ときちんと授業に出て勉強してとかって色々、言ってましたけども、まあとにかく色々こう聞いて下さる。それは非常にとてもありがたかった半面、視覚障害者を受け入れるってことは大変なんだなあというのを感じました。

盲学校では当たり前のように日常生活を送って、さっきも言ったようにクラブ活動もするし、授業も別に、比べたわけじゃないですけども点字の教科書になってるってだけで、教育内容的にはそんなに変わりはないし、自分は別に普通の人とおんなじなんだと思っているのに、どうもなんか全盲の学生が一般の健常者ばっかりいがいる学校に行くというのは大変なことらしいぞというのを、京大に呼び出しをされたことで感じました。その時は交通費も出ずに自腹で往復して、確か日帰りだったと思いますけど泊まらずに帰りました。まあ予想通り落っこちまして、まあ流石に浪人してから人並みの受験生らしく予備校行ったりして勉強してですね、2年めはめでたく自明であるとも書かずに一応合格して入りました。

京大に入ったってことがやっぱり僕なりに完全参加を意識した、自信を持ったことにつながりました。自分は確かに盲学校という普通の人とはちょっと違う学校を卒業した。点字というちょっと違う文字を使って受験をした。でも、受験した試験の内容は一般の受験生と同じだし、それを自分は自分の実力で解いて、合格することが出来た。だから非常にまあ、自分自身で完全参加と平等みたいなのを実現できたぞみたいな喜びであり自信というのを感じたというのが、受験の思い出です。

で、レジュメの方にいきなりお母さん生きてて良かったってなんかわけのわからないことを書いてありますが、これは別に僕の発言ではなくてですね、あの、改めて京大に入ったころを思い出すんですけど、さっき言ったように初めての視覚障害学生でしたので、新聞とかに色々ととりあげていただきました。それはもちろんぼくにとってはありがたいことですし、10代の子供ですから、ちょっと舞い上がっちゃって俺は有名人かもしれないとかって安易に思っちゃったりすることがあったりしたんですけど、まあ当然キャンパスを歩いていても白い杖持って歩いてますので、ああ、こないだテレビに出てたねえとか声掛けられることもありますし、まあ見えない人間ってのは目立つんだなあなんてなんとなく感じてるわけなんですけど。お母さん生きてて良かったていうのは実は、京大に入ってすぐ、今も多分うちの実家の母親は大事に取ってると思うんですけど、女性自身っていう週刊誌に特集みたいなので、全盲の広瀬君が苦学の末に京都大学にめでたく合格しましたみたいな感動のレポみたいな感じでのりまして、そのタイトルがお母さん生きてて良かったっていう。確かに僕は別に生きてて悪かったとは思わないけど、あんまりお母さんに生きてて良かったとは言わねえよなあとは思います。取材に来たフリーのレポライターの方、割と若い女性が来て、色々本当にまあ、生活に密着して下宿まで来てですね、一人暮らししてる様子とかを取材して、結構いろんな話をしてですね、あ、これはきっといい記事になるに違いないなあとか思って。期待してたら、女性自身だから結構なんか僕が良く行く定食屋のおばちゃんとかが読んでてですね、広瀬君週刊誌読んだわよ、私泣いちゃったわとかって、なんかおかしいな様子がおかしいななんで俺の記事読んで泣くんだろうなとかって思って、そのうちこう、結構クラスメイトとかでもやっぱり女子学生中心に、女性自身読んでいる人がいてですね、感動を、涙ちょうだいとまではいかないですけど非常に感動的に書かれているということがわかってですね。で、おそるおそる送られてきた週刊誌を友達に読んでもらって、確かにウソは書いていないですけどまあ上手に書かれてました。小学生の時は目が見えていたけど段々こう視力が下がって、心ならずも盲学校という特殊な学校に行った。でもそこで一生懸命勉強して苦学の末にやっと京都大学に進学しました。みたいな感じで感動的に書かれていた。それは今言ったように、嘘ではないんだけどなんかちょっと違うなあみたいなことを感じました。先ほど言ったように、自分自身は完全参加と平等みたいなことで、マイノリティーだけどマジョリティーの社会に入ってきて、これからみんなと肩を並べて一緒にやってくんだぞーみたいに思ってるんだけど、どうもその、一般社会っていうのはなんかその、特別に見てるしやっぱり特別な人なんだという風にとらえてるんだなあみたいなのを感じたのがこの、お母さん生きてて良かったという女性週刊誌の見出しだったと思います。

で、次に点訳サークルの話をしたいと思います。 そうやって大学に入ってですね、あのやっぱりみなさん一番気になるのはじゃあ大学で、どうやって勉強していたのと。 教科書は全部墨字でしょ、テストはどうしてたんでしょう。という話です。 今の時代は先ほどから言っているようにパソコンがどんどん便利になって、今自動変換とか言って、点字を知らなくても点字の文章を作れるようになりましたし、今のその若い視覚障害の学生なんかも、ほとんどあまりその点字を使わずにテキストデータでそれをパソコンに掛けて、音声で聞いたりしています。 ですのでまあ、これまた後の交流の時に現役の学生さんなんかから事情を聴きたいと思いますけども、意外と各大学の点訳サークルというのが今、全国的に見て元気がないというか人数が減っている、それは何故か、視覚障害の学生目が見えない大学生というのは数的には増えていると思います。 いずこも同じというか推薦入試とかで割と簡単に大学に入れるようになりましたので、 目が見えない学生数そのものは増えていると思います。 でも、昔は僕らの時代っていうのは大学の点訳サークルに大学のテキストを点字にしてもらう。 当時はまだパソコン点訳は出始めだったし、プリンターってのが高かったので、中々買えなくて、基本は今日の点字の点字の教室にもありますけどタイプライーターです点字のタイプライター。 あの点字のタイプライター最初見たときびっくりしましたけども、打ってるキーの部分が動いてくってのは中々珍しいと思うんですけど、そういう昔ながらの道具、タイプライターというのを使って点訳をしています。 そうやって大学生の教科書、参考書は大学の点訳サークルが割と頑張って点字を作るっていうのがある意味いろんな大学で当然のように行われていたわけです。 ところがまあ先ほど言ったようにこれはいい時代になったなあと思うんですが、まず大きな理由としてさっき言ったようにあまり点字というものに頼る割合が相対的に軽くなった、先ほど言ったようにパソコンで音声を聞いたりという事が出来るようになりましたので、あまりその点字、どうしても点字にしないといけないということが無くなった、もうひとつは京大にもあるようですけど、学生支援という事で大学側が最低限のテキストなんかを提供するようになりました。 そういうこともあって、あまり学生のサークルというのが元気がなくなっているという状態があるんだと思います。 たしかに学校が保証してくれる、パソコンが発達して便利になったというのはありがたいことだしいい時代になったなあと思うんですけどその半面で昔は点訳サークルというのが割と視覚障害者の学生の学習環境を保証するという事で頑張っていた人たちがちょっとこう、お固い言い方をすると、目的を失ってしまっているのが現在なのかなという気がします。 僕当然のごとく京大に入ってすぐ、京大点訳サークルというのに入りました。 今日残念ながら僕の先輩で夜の部から来てますけど、岡根天音さんなどが先輩におられて、当時は何人ぐらいでしょう?20人ぐらいのサークルだったと思います。 大体波があって、多い学年と少ない学年が交互にやってくる。 やっぱり少ない学年があると次の年は頑張って新入生歓迎をしないといけないということで、ビラ配りとかを一生懸命やると割と入るという事で、多少ジグザグがありますけど、その当時20人ぐらいのサークルでした。 よく言われる事なんですけども、視覚障害の当事者が入るとその点訳サークルの点訳のレベルが下がると過ってよく言われるんですけども、なんでかっていうとさっき言ったように僕はあんまり今でもそうですけど点字のマス開けとか分かち書きって嫌いで、基本どうでもいいしよくたとえで言うなら墨字をみなさん書く場合仮名書きにするか漢字で書くかとかいうのって結構個人の趣味で決めていたりします。それで例えば僕もあんまりポリシーというほどでもないですけど、例えばエッセイを書く時と論文を書く時では多少漢字の使い方を変えたりするわけですけど、そういう自由度とか筆者に任されてる部分があるんですけど、点字っていうのは今非常に厳しくマス開けのルールを守らないといけない。 今日あのすごく感動したというか安心したのは、11月祭のパンフレットを点訳サークルの皆さんが点字にしたものがあってそれを借りてずっと見てたんですけど、非常にきれいな点訳で、かなりレベルの高い、今、いろんな模擬店とかサークルの名前とか結構横文字と日本語が混在してたりアルファベットが日本語の間に入ったりとかってかなり点訳するの難しいと思うんですけど、きれいな、かなりレベルの高いどこへ出しても恥ずかしくない点訳をしてたので、ああ、人数は減ってるけど頑張ってるなというのを感じました。 最初僕が点訳サークルに入った時に、やっぱり一応ネイティブスピーカーじゃないですけども点字を使ってる人間が入ってきたので、これは点字のことで分からないことがあれば当事者に聞けばいいという事で、割と先輩方も最初は僕を尊重してくれて、さっき言ったマス開けとか分かち書きで分かんない時は広瀬君ここはどう書けばいいのかなあとかって言われて、で、僕も自明であるとかって言うのは流石に失礼なので、あ、まあそれは切ると思いますよとかって言ってみたら、その後で点字表記辞典とかで調べたらどうも「広瀬君これはつなげていいらしいよ」とかって、「あ、そうですか辞典に書いてあるならじゃあつなげるんでしょう」とか言ってたら、3か月ぐらいしたら段々誰も僕に聞いてくれなくなって。 まあこれはよく言われるんですけども、英語のネイティブスピーカーとかがグラマーのことがあんまり分かんないっていうのとおんなじで、あんまりこう、点字使ってる人間は意外とこう、感覚でやってたりする部分があってですね、 結構点訳サークル、逆に僕が点訳サークルに入って点字のマス開けとか改めて勉強した面がありますけど、まあそういうサークル入った当時の思い出があります。 そこに学園祭の思い出って書きましたけども、せっかくなので学園祭の時の話もしたいですけども、まあそうやって3か月ぐらいで僕が点訳サークルにいる価値っていうのはなくなってしまったんですけども、 一応2回生の時は会長をしまして、僕の学年は、確か僕の上の学年が少なくて3人ぐらいで、僕の学年は10人ぐらいいました。 この学園祭の時何をやるかっていうので、どうしても点訳サークルの展示っていうのは毎年やるし、今年も橋本君の力作何かがあって頑張っているわけですが、教室展示っていうのはNFにおいてあまりこう、どちらかというとそのマイナーなものですし、そう一般のものが来るものでもないわけです。 僕自身はさっき言ったようにずっと完全参加と平等、そしてどうも大学に入って視覚障害という事を周りの人は何も知らない、まあ点訳サークルの仲間なんてのは例外なわけですけど、一般の学生なんかと話をする中で、いかに目の見えてる人が見えない人のことを知らないのかという事を、痛感させられたわけです。 で、だから、やっぱりNFっていうのはサークルにとっては一番アピールする機会ですから、NFを使って点字というものの存在であり目の見えない人の存在であり、アピールするということをずっと考えていました。 大学2年生のNFの時に何をしたかというと、幼いなりに色々考えたんですけどもどうすればアピールできるかと考えて、やっぱりこれは有名人を呼んで講演するしかないだろうと。 いうことで、まあ僕がしゃべってもせいぜい20人ぐらいしか来てくれませんでこれは当たり前ですけども、もう少し一般的に名の通った人を呼んで、点訳サークル主催講演会と言って、講演に合わせてサークルの宣伝何かをしたらきっとアピールになるぞ、ということで、色々広報を考えました。 当時まだ西川清が参議院議員だったりして割と福祉に力を入れてるとかっていうので、とりあえず有名人で福祉に力を入れてる人、萩本金ちゃんは24時間テレビをやってるしとかっていうので、昔ですが若さにまかせてというか恥はかき捨てというか片っ端から電話をかけてですね、面白かったのは僕の一つ上に堀さんっていう変な人がいて、またこの人の話は飲み会の時にでもしますけど、とにかく日常生活が破たんしてる人だったんですけど、堀さんっていうのと僕が電話で有名人交渉係がなんかになって、堀さんは電話する時にすごく緊張するから僕は原稿書いてから電話をかけるとかって、西川清さんの事務所ですか、私京都大学の堀と申しますとかって言ってそこからもう原稿書きだして一文字ずつ書いて、 こう言われたらこう言うんだとかって色々理学部の人だったので場合わけかなんかをしてたんですけど、当然そんなものは役に立たなくてですね、軒並みどんどん断られていきました。 面白かったのは大江健三郎が一瞬有名でして息子さんがその生涯をもたれてるというのもあって、福祉関係の講演なんかもしてるっていうので、東京の点字図書館の館長さんが大江健三郎氏を知っているというふうに聞いたので、いきなり連絡先も分かんないしいきなりいっても駄目だから、知り合いの館長さんを通じて大江健三郎さんに頼んでもらおうといって、東京の点字図書館の館長さんに電話をして、一応何回か面識があったので、京大の広瀬といいますけど、僕も単刀直入に大江健三郎さんを、って言えばよかったんですけど、一応説明しないといけなと思って、まあ堀さんほどではなかったんですけど、学園祭で点訳サークル主催でちょっと有名人を呼んで講演をしようと思ってるんですけど、っとかって言ったらいきなりその館長さんが「僕は有名人じゃないよ」とかって言われてもう自分に頼まれると思ったらしくてもうどうしようかと。あんたが有名じゃないのはわかってんだよと思ったけどまあしょうがねえやと思って「先生もあの、有名だとは思うんですけど、もう少し有名な方で大江健三郎さんを」とかって言って。で、結局大江さんにも一応交渉はしたんですけど駄目で、最終的に落ち着いたのが水上勉さんです。 で、もう亡くなってしまいましたけど、実はご存知の方もいらっしゃるかもしれないですけど、京大のすぐ近く、今まだあるのかな。「しぶんかく」がありますけどもあそこの上に別荘というか仕事場を持っておられて、そんな関係もあって京大なら近いから行ってやるよと言って、水上勉さんと今もご活躍ですけど全盲の弁護士で京都にいらっしゃる竹下芳樹さんという二人を呼んで対談をしました。 その時は多分200人ぐらい入るイベントが出来ました。 今考えたら本当に恐ろしいなと思うんですけど、お金がなかったので水上さんに一万円で竹下さんに五千円かなんかだったと思うんですけど、よくそれで受けてくれたなと思いますけど、まあ恥知らずみたいな感じで来てしゃべっていただいたというのが、 点訳サークルでは僕にとっては最大の思い出です。 だからずーっと僕の中では完全参加と平等ということで、まず障害を持っている人のことを知ってもらおうと、そしてそこで共に生きるというようなことをずっと追及していきたいんだという思いが今振り返ってみるとそういうのがずっとあったという気がします。 そこに公的保証という理想と書きましたけども、公的保証というのは今では当たり前になってますけども、当時はさっき言いましたけど基本目の見えない学生が大学に入ると自己責任です。 自己責任で自分でボランティアを探してくる。 例えば京都であれば京都ライトハウスに行って頼んだりする。 そこにパソコンの威力とボランティアの知力って書きましたけど、自分でどうやってボランティアを探してく、あるいは自分でパソコンの技術を身につけて墨字を書けるようにしていくとか、いうことで、基本自己責任でそういうことをずっとやっていました。 ですので、今日来られてる大多数の方ご存じのように関西SLっていうのがあって、そこでこう、僕は東京の盲学校から京都に来ましたので、その関西に視覚障害の知り合いがいなかったわけですけども、関西SLなんかを通して、視覚障害の同世代の人たちと情報交換が出来る。 そしてまあ、パソコンの使い方なんかでも、いろんな新しいソフトの情報を得たりとか、そういうことがあって、横のつながりっていうのは大事なあってことを感じましたけども、とにかく自分で情報を集めて自分でボランティアさんを探す。 大学側は何もしてくれないというこでした。 ただまあ、京大は当時としては今はどうかわかりませんけども、割と頑張っていた方です。 先ほどったように、なんせ、入る一年前から丁寧に面談をしてくれたぐらいですから、入った当時も割とどうすればいいんだというこを、まあ当時体育の先生ですけども、退官されてだいぶ経ちますけど、隈本先生という大変熱心な障害学生に理解のある先生がおられてですね、その先生がリーダーシップを発揮して、いろんなだからまあ、学内に、今もうだいぶん新しい建物にかわってますけども、古めかしい点字ブロックとかが本部構内にも何か所があると思うんですけども、あれは全部僕が入った時に、熊持先生なんかと相談しながら一緒にキャンパスを歩いてここにつけましょうとかここはあった方がいいですみたいなことを確認してつけたものです。 で、教科書についてもですね、割とこう、まあ今みたいに支援室みたいなものはもちろん無かったんですけど、基本は完全参加と平等じゃないけど、目の見えない学生が入ってきて、きりがないけど教科書類は大学が保証しようと、具体的には京都の盲学校と京都ライトハウスに外部委託をしてですね、いわゆる有料点訳という事で、大学がお金を払って教科書は点字にしてもらうと。多分教科書以外、参考書とか授業の中で紹介される本については自己責任でやってくださいということでやってました。 で、一応一年目、大学一年の時はちょっと連絡の行き違いとかがあって英語のテキスト、英語の教科書は京大の点訳サークルが僕のを打ってくれてました。 ただ2年目からは英語の方も大学側が打ってくれるようになったので、 基本は僕の教科書類は点訳サークルではやらずに、他の大学の視覚障害学生のテキストを京大点訳サークルは打っていました。 まあそうやって大学側が一応お金を出して、教科書類を保証してくれるっていうのは当時の全国の大学では割と進んでいる方でした。 ですのでそれは非常にありがたかったなあと思うんですけど。 大体一般の大学では、今は同志社とか立命とかも多分京大以上に視覚障害学生の受け入れ実績もあるし、サポート体制も充実しているわけですけど、公的保証という考え方が根づいて、教科書については大学側がなんとか保証しましょうという事が、全国の大学に広がっていっています。 で、実際支援室みたいなのが各大学に出来て、そこに専用の職員を雇っているなんてところも増えています。 ところがまあ、20年前というのは公的保証というのは理想だけどなかなか実現は出来ないと。 ですので大学の点訳サークルは先ほどから言ってるようによく関西SLなんかでも肩代わりとしての公的保証という言葉を使っていましたけど、本来は大学が目の見えない学生を受け入れたんだから、その学習環境を整えるのは大学の責任だと。 さらにもっと言えば、国立大学であればその国の責任であるし、私立大学も私学なんとか協会みたいなのがありますし、そういうことでですね、もっと政府レベルなんかでも保証がされてもいいんじゃないか、国立の点字図書館みたいなのがあってもいいんじゃないか、そしてまあ、町のいわゆる公共図書館パブリックライブラリーなんかも公共図書館、その地域に住んでる人が誰でも使える図書館であるならば、点字の本をそろえないといけないし、まあ対面朗読って言ってですね、その図書館にある蔵書をボランティアの人が読んであげる、そういうことをしないといけない。 僕はずっとまあ、大学で点字の教科書を最低限保証していただいて、後自分の読みたい本とか参考書的なものは、当時カセットテープですけどカセットテープで録音してもらったり、対面朗読ということで、毎週僕はずーっと府立図書館、岡崎にありますけどあそこに毎週通っていました。 あそこでボランティアの人に本を読んでもらったり、これはあの、対面朗読、まさに面と向かって本を読んでもらうわけですけど、僕はよく古くて新しい視覚障害者の読書法って言うんですけど、どんなに機械が発達してもですね、人に読んでもらう快適さにはなかなか到達しない。 人に本読んでもらってると、例えばこう、あああんまりおもしろくないやとか、そこちょっと飛ばして下さいとか、そこは見出しだけ拾って下さいとか言ったり、割とこう自由に、分かんない言葉が出てきたら辞書ひいてもらったりとかですね、結構自由にできます。 もちろん今、デジタル録音になって随分それに近い飛ばし読みなんてのも出来るようになりましたけども、まだこう非常に、柔軟かつ適当に読んでもらうというレベルには機械ではちょっとまだ到達していないかなという気がします。 で、僕はずーっとだから今も対面朗読っていうのが好きですし、一週間一度、時間を決めてですね、この時間は自分の勉強の時間にあてるみたいなことでやってると、生活のリズム的にも非常にいいので、今は毎週木曜日に対面朗読、近くの豊中市の図書館に行って本を読んでもらっています。 まああの、雑談になりますけど僕が今対面朗読してもらってる方、ボランティアの方っていうのが、元中学の英語の先生かなんかで、もううちの母親より上で、76歳くらいかな。なんだけどスーパーおばあちゃんで。 パソコンとかすごい強いしなんせもう先生だったので、勉強熱心で色々自分で勉強されてる感じです。 どうしてもご本人も意識されてるんですけど先生癖が抜けないみたいで、僕は10月11月とかって結構忙しくて出張とか入っちゃうんで、木曜日どうしても休まないといけないことがあって、すみません来週僕出張が入っちゃって休みますとか、広瀬さん、勉強しなくていいんですかとかって、勉強しないといけないんですけどね、仕事が入って申し訳ないですとかって土日はどうですかとかって言うから土日も僕忙しくてとかって。 駄目ですよもっと勉強しないととかって言ってとにかく対面を休むとかって言うと、ありがたいんですけど、その方はまあ老後になって御主人もお亡くなりになって、ちょっと大げさに言うと僕のこう、手伝いをして下さっているというのは大げさに言うと生きがい見たいに感じて下さってるところがあってですね。 休むとかって言うと非常に残念がるというか悲しがって下さって、最近はどっちがボランティアやってるのかよく分からない。 まあお茶を飲みながらお話をしながら本を読んでいただいて、まあそういう機械もいいけど人と人のつながりっていうのはいいなあみたいなことを感じています。 でまあそういう、機械の発達と対面朗読、まさにそこに書いたボランティアの知力とパソコンの威力というのが視覚障害者の勉強というのを支えてずっときたんだと思います。 予定通り、あ、予定以上ですね。1時間、やっと1番が終わりまして、これから2番の方に入っていきたいと思いますけど、共生、共に生きる、今日の言葉で言うと完全参加と平等、目が見えないなんて関係ない、同じ人間なんだから一緒に生きていけるんだ、一緒にやれるんだよと、いうふうなことをまあ共生というふうに定義するなら、共生、共に生きるということに対する疑問というか、自信がこうちょっと無くなってくるというのが実は大学後半の話です。 でまあそこに古文書との出会い、晴眼者と同じ研究が出来るのかという話ですけども、僕はまあ文学部の日本史学科、当時はまだ国史学科、国の歴史と書いて国史学科にいましたけど、その国史学科に進学しました。 国史学科に行くとですね、大体古文書っていう日本の古い資料を読むわけです。 3回生ぐらいになると、古文書演習っていうのが入ってきてですね、鎌倉時代とか室町時代の古い資料の現物が出てきて、それを一字一字解読していくという演習をします。 これは本当に慣れの問題で、くずし字辞典とかとらの巻があるので、ある程度はまあ、基本日本語ですし、崩し方の法則みたいなのを覚えると段々こうやっぱり、最初は手も足も出ないんですけど、読めるようになっていくわけです。 ところが僕は当たり前すけども、崩し字そのものは見ることが出来ない。 今までは自分が読めないものは点訳ボランティアに頼む。 あるいはパソコンを使ってなんとかやるということだったんですけど、崩し字を読むっていのはやっぱり専門の知識が必要ですから一般の点訳ボランティアの方に頼んでも中々そうすらすら読めるものでもないというわけです。 自分にも読めない人に読んでもらうというのも難しいと。 また、人に読んでもらったとしてもやっぱり、点訳サークルの方ご存じのように点字っていうのは基本漢字がない世界仮名文字の世界ですから、古文書というのは言ってみたら日本風の漢文なわけですから、漢字を相手にするということでは中々難しいし、ハンディキャップがあると。 そこで実際に古文書演習なんかで周りの晴眼の学生がもちろん読めないんですけど、段々崩し字辞典とかを使って、段々読めるようになっていく。 でも僕はほとんどお客様状態で座ったままで、先生もなんか困ってどう指導したらいいんだろうと困っておられたようですけど、こっちもどうしようもないなと思って、途中から点字の小説なんか読んで、持ってって読んでて。 点字のありがたいところは大体周りの人は何読んでるのかわかんないところ。 極端な話ポルノ小説か何かでも別に真面目な顔して読んでたら広瀬君よく勉強してるねーとか言われたりします。 まあ授業の時も点字の本を一応日本史関係の本を読んだりしてたけど、これはちょっとまずいなあと思って、古文書はどうしたもんだろうと悩みました。 で、そこで初めて今までは京大の入試が一番自分に自信を与えてくれたって言いましたけど、基本きちんと条件が整えば目が見える見えない関係ないと、同じことが出来る同じ人間なんだというふうに思ってたんですけど、この古文書との出会いで初めて、あ、どうもやっぱりちょっと違うし、これは無理だなあと。 仮に古文書が頑張って読めたとしても、どだい目が見えてすらすら漢字も読みといていく人と、一生懸命一字一字拾っていく自分でやって、そりゃあ目が見える人と勝負して勝てるわけがないなあというふうに思いました。 そこにまあ一語で書くと冗談みたいですけど、読めないから読まないへの転換ということでこの一字違いですけども、最初はずっと読めない、どうしようという、いわばマイナス思考だったんですけど、もう読めないのはどうしようもないやということで、色々と試行錯誤はあるんですけども、読めないという発想はやめてもう読まないということにしちゃおうと、ただし読まないことにしちゃったら日本史学科にいますので、僕は古文書は読みません、読まないと宣言してしまうとやっぱりまずいので、なんか代わりの手段を考えないといけない。 試行錯誤をする中でまた唐突な言葉が書いてあって、早くいい奥さんを見つけなさいって。 俺に言われたくないよと思ってる方もいるかもしれないですけども、これは何かっていうとですね、そうやって僕なりに2回生3回生ぐらいのときは随分古文書が読めないという事で悩んだというか壁にぶつかっていたわけです。 で実はあまり皆さんご存じないと思うんですが、加藤泰明先生という、もう亡くなってしまったんですけど茨木大学の先生をずっとされていた方で、この人は教育学がもともと専門で、東京教育大で勉強されたんですけど、東京教育大って今の若い人は知らないですね、今は筑波大学っていう大学ですけど。 そこで在学中に病気で目が見えなくなってしまった。 で、専門として盲学校の歴史とかいわゆる昔特殊教育って言ってましたけど、我が国特殊教育の歴史だったかな、そういう大著も書かれてますけど、その盲学校とか聾学校の設立の歴史の勉強をしてて、そこから段々とさかのぼっていって、じゃあ盲学校ができるまえはどうだったんだろうということで、江戸時代に視覚障害者の歴史というのを研究された方です。 今でも京大の図書館に入ってると思うんですけど、日本盲人社会史研究っていう1974年だと思いますけども、もう今から30年以上前に出された加藤先生の博士論文ですけども、すごく立派な本で、いまだに視覚障害者の歴史を研究するという事になると、あの本を超える物は無いです。 点字の本もあって僕も一応持ってますけど、素晴らしい本なんですけど、ただし全部読みとおすのはなかなか至難の、難しいもので、何が大変かっていうと要するにその古文書をたくさん引用してるんですね。 で、江戸時代の資料なんかを盲唖院、全国各地を歩いて探して、それを引用して非常に綿密な、歴史の方では実証的研究なんていう言い方をするんですけども、資料に即した素晴らしい論文を書かれています。 で、僕はまあ大学一年生、2年生ぐらいの時にこの本を初めて読んで、全然歯が立たない。三回ぐらい読みましたけどいまだに全然歯が立ちませんけども、けど目が見えなくても立派な歴史の研究をされてる方がいるので、一度その先生の話を聞きに行こう、ということで、多分あれは大学2年生の終わりごろだったと思うんですけど、加藤先生は東京の方にお住いになってて、加藤先生の所に話を伺いに行きました。 そこでなんせ僕の大きな疑問は、疑問というか質問は、どうやって目の見えない人が古文書を処理しているのか。 あれだけの素晴らしい大著を書かれてるんだから、どうやって古文書を呼んで本を書いたのかというのを聞き出したわけです。 色々話をする中で、答えは極めて簡単です。 加藤先生は、僕は全部資料は妻に読んでもらった。 奥さんも大変優秀な方で、実際加藤先生の研究を手伝うために東大の古文書演習かなんかをずっと受講されて、まさに二人三脚で盲人社会史研究という本を完成されたと。 ですので御夫婦の生き様について僕がとやかく言うことではないし、そうやって二人三脚で研究をして素晴らしい業績を残したっていうのも意義あることだなあと思うんですけど、最後に加藤先生が半分冗談ぽくですね、早く君もいい奥さんを見つけなさいというふうにおっしゃいました。 それは未だに僕の中で何となく記憶に残っている言葉ですけども、まあ、そうか、俺は奥さんを頼るしかないのかと。ふと自分の周りにいる点訳サークルの女性とか、色々と女性を思い浮かべた時に、うーん、古文書読んでくれる人いるかなあとか思いましたけど、ちょっと望み薄だなあとか思いつつ。 やっぱり目が見えない人間はさっき言ったようにボランティアの知力っていうことでボランティアの人にサポートしてもらうってことは墨字を処理する上では当然必要になってきます。 ただそれが特定少数の人に集中してしまうっていうのは果たしてどうなんだろうともう少し例えばボランティア何かを上手に使って研究というのは出来ないのかなというふうなことを思います。 ですからこの言葉というのは非常に時代を象徴してると思いますし、まあそういう時代だったんだろうなあと。 ボランティアなんて言ったって中々いない時代ですから否応なく奥様、一番身近にい人が手伝わざるを得ない状況だったっていう時代だったんだと思いますけども、多少今は時代が変わってきたんだから、もう少し違うやり方があるんじゃないか、だから反発とまでは言わないけども、ちょっと奥さんに頼らないといけない研究みたいなのは、僕はしたくないなあみたいなことを、大学2年生のころに感じました。 次に出てくるのが見えないことをプラスに転じるという話で、イタコや琵琶法師なんですけども、僕が卒業論文で選んだのは、加藤先生の影響もあってなんですけども、琵琶法師の歴史です。 当時まだ九州地方の方に琵琶法師が残っていまして、その聞き取り調査をしました。 なんせ僕のとりあえずの考えながら歩いて、歩きながら考えてという事ですけども、資料が読めない、読まないという方法を補う方法として、自分は割といろんなところに行って、いろんな人の話を聞くっていうことがどうも好きらしいと。 で、確かに知らないところに行くっていうのも大変は大変だけど、少なくとも机に座って読めない資料を前にして手も足も出ないというよりも、外に出て歩いて迷って人に道聞いてるほうがまだ可能性は開けるだろうということで、あちこちに聞き取り調査に行くようになりました。 その一番大きなきっかけが、山伏の修行ということで、これは大学3年生の、3回生の夏休みに初めて東北地方で行われてる白鷺山という山形の山ですけどもそこで行われている山伏の修行というのに、修行って大げさに言うんですけど、山にこもったのは9日間だけなんですけど、9日間山にこもっていろんな行をする。 確かにその、山伏の修行だからそれなりに厳しいんですけども、そこで感じたのは、さっきの女性自身の話もそうですけども、やっぱり山伏の修行なんかをしてて、目が見えない人間が一人いると、当然周りには迷惑をかけるわけですね。 歩くって言っても歩けないし、周りが何やってるのか分からないので説明してもらわなきゃいけない。 だから周りに迷惑をかけるっていう風にマイナス思考で考えると良くないけども、実はそうやっていろんな人に手を借りるっていうことは、そこでコミュニケーションが生まれるわけです。 ですから例えば慣れるまでは当然、慣れたら一人で行けますけど、トイレに連れてってもらわないといけない。 山寺みたいなところですから、その辺でトイレしてもいいような御寺ではあったんですけども、トイレへ行くまでが結構大変だったりします。 そこに行くまで最初の何回かはトイレへ連れてってもらうわけですけども、トイレへ連れてってもらう時もむすっと歩いてたらあんまりつまんないから、いやあ修行は大変ですねえとかなんでこられたんですかとかそういう無駄話をするわけです。 そういう無駄話の中からなんか色々こう意外なことが聞き出せたりとかいうことがあります。 だからなんかトイレに行くのも、まあ行きたくない時にトイレに行くのも時にはいいのかなとか思ったりもしますけども。 まあそうやって目立つって言う事、人の手を借りないといけないっていう事は、時には聞き取り調査をするということではプラスになることもあるなあということを感じました。 で、僕が出会った琵琶法師の話、時間が無いので琵琶法師の話だけにしますけども、琵琶法師っていうのはご存じの通り平家物語を語っている。 中世鎌倉室町時代、全国を旅してるわけです。 今日せっかくあの、琵琶法師のCD持ってきたのでちょっとさわりだけ聞いてもらおうと思うんですけど平家物語の有名な横笛っていう段のさわりだけ。 かかる? (パソコンがしゃべる) これはCDなので、現在もうまだ生きている琵琶法師の方が、 (パソコンがしゃべる) いける? (パソコンがしゃべる) 駄目か? (平家物語がかかる) マイク無いの? (平家物語がかかっている) まああんまり、やめときましょう。 はい、あの、まあバックミュージックでかけててもいいけど。 平家物語っていうのはご存じの通り源平合戦っていうのが12世紀ぐらいにあってですね、 その後平家が滅亡してその怨霊供養として琵琶法師が全国で語っていたものが段々一つになっていくというもので、一応現在も細々とではありますが、平家物語、平曲って言いますけど、平曲の伝承者っていうのが、おひとりなので、この方がなくなったら平曲の正当な伝承者がいなくなるんですけど、いらっしゃいます。 その純粋な平家物語とはちょっと違うんですけど、九州地方に琵琶を持ってお経を唱えたりする盲僧、盲人の僧侶っていうんですけど、そういう方々がいまして、その方々の聞きとり調査をしました。 そこでやっぱり僕自身の考え方っていうのが大きく変わるわけです。 レジュメの方には見えないことをプラスに転じるっていうふうに書いてますけど、琵琶法師の方が立って言うのは確かに目が見えないわけですけども、考えてみたら怨霊の供養をするってさっき言いましたけど、怨霊なんていうのはだれにも目に見えないわけです。 その誰にも目に見えないものを、実際に目が見えない人が供養しているというのは、非常に逆説的なんですけども、そのレジュメの方には見えない世界を見るというふうに書きましたけども、実はその死んだ人とか怨霊の世界という、見えない世界をリアリティーを持って語ることが出来るのが、現実生活で目が見えない琵琶法師たちであるということで、この琵琶法師たちというのは本当に全国各地を旅して、当然点字ブロックとかない時代だからいろんなところで事故にあったり、溝に落ちたりなんてことがあったと思うんですけども、そんなことを言ってたら生きていけないということで全国を旅していくわけです。 で、まあそういう人たちの生き方に接して、ああ、まあ自分自身は琵琶法師になるほどの根性もないし今の時代そんなに琵琶法師っていうのが受けるわけじゃないけども、見えないっていう事を一つプラスに考えて、見えないことですごい逆説的ですけども見えないから見えるものがあるはずだみたいなことで、 怨霊の世界を入っていくと。 そしてまあ、琵琶法師っていうのはちょっとさわりだけ聞いていただきましたけど、単調なびわをべーんべーんと弾いて、声で歌を歌うわけですけども、いわば音、びわの音と声という事で、その物語の世界をずっと作って伝えていくという事で、そういう意味で四角を使わないで聴覚、音というところで訴える。あれだけのものを文化として作って伝えてきたという事で、ああこういう人たちもいるんだなあという事で、自分自身は、今でも時々僕は琵琶を持たない琵琶法師とかって言ってあんまり説得力がないですけども、生き方としてはそういう琵琶法師の生き方を自分もやっていけたらいいなあということを考えています。 だからまあ、この古文書が読めないというところから、古文書を読まずに聞きとり調査をするという事をする中で、琵琶法師に出会って、やはり自分自身の目が見えないという事に対する考え方であったり、どういうふうに研究をしていくかということが大きく変わってきたという事があります。 次に3番の共活への目覚めという事ですが、今の博物館の話になるんですけど、実は大変申し訳ないというか予定通りですが、3番を話してたら大変なことになります。 で、申し訳ないんですけどさっき言った新聞記事なんかに最近僕がやっているユニバーサルミュージアム、誰もが楽しめる博物館というのを掲げてずっと活動をしてるんですけど、まあそのへんその博物館で触るという事に取り組んでる話というのは大体そのまあ、新聞記事の方に書いていますので、ここはちょっと申し訳ないですけどそちらを後で読んでいただきたいと思います。 その、共生じゃなくて共活という言葉をあえて使うのはなぜかっていう話ですけど、どうしても共生、完全参加と平等ってのはこれは素晴らしい理想ではあるんですが、先ほどずっと僕が話してきた大学、高校から大学に掛けての思い出、高校の時はもちろん点字の習得っていうのもあったけども、なんとかして墨字、普通の文字を書きたいと、そういうところからパソコンによる自動代筆ってものがうまれたわけです。 大学に入ってみて、完全参加と平等ってのは絵に描いたもちとまでは言わないけども、周りの健常者って言われてる人たちは目の見えない人のことを知らないんだと、だから点訳サークルの講演会何かを企画して目が見えない人のことを知ってもらおうということをずっと考えていました。 ですがどちらかというと非常に極端な要約になるかもしれないですけども共生、共に生きるとはいうものの、結局のところはマイノリティーがマジョリティーに一生懸命努力して近づいていく。 まあそれは少数派と多少派ですからある程度少数派が多少はにあわせないといけないわけですけども、やっぱりなんかこう一方向的だなあと。 で、その僕は最近大学での学習支援とか、支援という言葉があまり好きではないんですけども、どちらかというとその支援っていうと、やっぱりマジョリティーがマイノリティーを手助けする、サポートする、実際にはそういう面がもちろん大きいわけですけども、どうもその方向が一方向的だと。 だからマイノリティーは頑張ってマジョリティーに近づこうとするし、マジョリティーはどちらかというとその弱い立場であるマイノリティーをサポートしてあげる、応援してあげるんだという意識を持つ。 だからそれはそれで現実的にはいいのかもしれないけどもそれだけでもないだろう。 そういうことを考えるきっかけは先ほどから言っている琵琶法師たちの生き方です。 琵琶法師たちは確かに目が見えないという障害を持っていたし、日本のかつての社会においてマイノリティーだったわけですけども、もう少し何か支援とかとはちがってきちんと役割を果たしていたし、先ほど言った見えないっていうことをプラスに考えて、見えないから見えるものがあるんだ読みたいなことで、素晴らしい文化を作ってきたわけです。 そういうふうなことを考えたら、共生、共に生きるっていうんじゃなんかちょっとインパクトというか、弱いので、もう一歩進めて共に活かす、だから活かす、っていう言い方をすると何となく双方向になるんじゃないかと。 支援という一方向じゃなくて、共に活かす、共に発信するみたいなことを考えると、ちょと障害と健常とか、目が見える見えないとかっていう捉え方が変わるんじゃないかなーみたいなことを願って、今、共に活かすという言葉を使っています。 で、最近僕が使ってる言葉は触常者と健常者、レジュメの4番の方にはいっておりますが、視覚障害者と晴眼者、障害者と健常者という言い方をすると、どうしても先ほど言った一方向的になってしまうんだけれども、 視覚障害者、目が見えない人っていうのはまあもちろん例外もあるけども、割とこう点字を読むことに代表されるように触覚を使うっていうことは、得意というか日常的によくやっている。 それに対して晴眼者と言われている人は、やっぱり視覚っていうのはなんていっても便利ですから、視覚に頼って生活している。 だからそれは見ることを常としている人たちだ。 そういうふうに触る人を常としている人と見ることを常としている人と考えると、ちょっと今までの障害、健常というのとは違う捉え方が出来るんじゃないかなというふうなことを感じています。 で、ずっとかけ足になりますが、その特にまあ点訳サークルの講演ですから点字関係の話を少ししておきたいと思いますけど、そこに正しい点訳と自由な点字の微妙な乖離というふうに書きました。 で、この点字っていうのはこれも視覚障害者の生き方とかと関わってくるわけですけども、点字が発明されたころ、今回の教室展示でも点字の歴史みたいなものが紹介されていましたけども、基本は先ほど言ったように目の見えない人が自由に読み書きをするという文字として点字はつくられるわけです。そこで完結してればいいわけです。 いいというか非常に理屈にかなってるわけです。 実際点訳サークルに入った人なんかも非常に最初に違和感を持つのは、点字の表記法で、墨字と違いますよね、基本点字は発音どおりに書くというふうになってますから、長音符とかを使ったり、あと「僕は」とかの「は」は「は」じゃなくて「わ」と書く。だから小学校で墨字を習ったときとは全く逆のことです。 発音どおりに。「どこどこへ」の場合は「え」と書くとかですね、まあその辺で点字というものにちょっと違和感を持たれたかもしれないですけども、これは言ってみたら発音どおりに書くという原則があるわけです、ですのでそこでは一応ルールは統一されているわけですけども、ところがまあ、今の時代になって例えば僕が点字の教科書の勉強していたころというのはまだ読点は使っていませんでした。句点、丸は使っていましたけど読点、点は点字では使っていませんでした。教科書では点というものはなかったわけです。 考えてみたら点字はマス開けをするわけですから、読点ていうのは大多数の場合区切り点ですから、特に点字でなくても、通じると言えば通じるわけです。 ところがその、今の時代はもう点訳サークルの方ご存じの通り、基本墨字通りに点訳する、読点があれば読点を使うし、中点があれば中点を使う。 ですのでまあ、言ってみたら点字っていう視覚障害者が読み書きするというレベルと、点訳、墨字のものを点字に直すというところで、ちょっと微妙なかい離があるわけです。例えば僕が視覚障害者の友達に手紙を書くときは別に読点なんかなくても十分通じるわけですけども、例えば墨字の手紙をそのまま点字にしたら、やっぱり読点がないとおかしい。 で、そこにまあ正しい点訳という風に書きました。これはボランティアの人を責めるつもりはないんですが、最近の点訳というのはルールでがんじがらめになっています。マス開けも結局、こういう場合は開けてこういう場合はつなげてと、間違ってるあってる、グレーゾーンというのが無いわけです。 これはもう、全国的に統一しているのでやむを得ない。 実際どこどこの図書館の場合はここが空いてるけどもここは開いていないとか不統一があるとやっぱりよろしくないので最低限統一したルールっていうのは必要なんですけども、実際のところマス開けの大多数の部分っていうのは先ほども言ったように点字を使っている本人からすれとどっちでもいいっていったらどっちでもいい部分が多い訳です。 ですからまあ、そこでは正しい点訳と自由な点字、自由な点字っていうのはだからあえてマス開けのルールをびしっと守るわけじゃなくて、何となく、くっついてたり離れてたりはその辺は個人の趣味でいいんじゃないですかというレベルの点字です。 誤解が無いように、僕ら当事者が読み書きする文字としては非常にあいまいかつ適当に書けばいい訳ですけども、点訳という風になると、中々曖昧でもいい、あいまいって言われてもこまりますよね、じゃあこういうばあいはどうするんですか、っていうことになってくるので、やはり統一したルールが必要になってくる。 で、一昔前まではそれはある程度すみわけが出来ていたわけですけども、先ほど言ったように便利な機械が出来てきて、僕ら視覚障害当時者が墨字を、パソコンを使って読み書きをするようになってきたわけです。 そうするとやっぱり点字が墨字と違う書き方をしてると変だと、墨字で読点があればやっぱり点字でも読点をつけなければいけないと、いうふうなことになってきて、段々自由な点字というのが肩身が狭くなって、なんとなく正しい点訳というふうなのが強くなっていくというのが今の状況だと思います。 で、だから僕もその流れに基本的にはいや、違うぞともっと点字には自由なルールがあっていいんだという事を言いたいわけですけども、ただ、ご存じの通りルールがあれだけかちっと決まってしまうと中々その、じゃあどうすればいいのかと聞かれると困ってしまう。 でまあそこに大きく点字力から考える日本語表記なんてのを書きましたけど、これはまああくまでも全然仮題で、全く中身が全くまだ出来ていませんけど、点字っていのを今日お配りした2009年のリーフレット、2009年に点字っていうものの展覧会を民博でやったんですけども、その時に改めて点字っていうものを考えて、確かにそのマス開けと過分かち書きとかは非常に難しいけども、改めてこれは触覚を使った文字なんだということを再認識しました。 これはさっきお話をしたように、一般の文字というのは目で見る文字ですから、当たり前ですけど線の組み合わせで字が出来ています。 それに対して触る文字である点字は点の組み合わせで字が出来ています。 これはやっぱり明らかに目で見るという事を考えると線が組み合わせれた、いわゆるイメージ、像として認識する文字が視覚に適しているわけですけども、触覚、触るという事を考えると線よりも点の方が速いし正確に認識できる。 だからまずルイブライユさんの偉い所は、文字は線で書くんですよというのが常識だったわけです。橋本君が作ってくれたように最初の盲学校教育ではそうやって線で書かれた文字を浮き上がらせてそれを触るっていうことをやってたわけですけども、それじゃあやっぱり触る人には不便だと。 だから目が見える人には目が見える人の適した文字があるように、手で触る人には手で触る人に適した文字があるはずだと考えて、ブライユは点々で文字を表すという事をしたわけです。 だから線で文字を表すという事に対して、その常識に対して、ブライユはその常識をぽんと飛び越えて、別に触る人には触る人に適した方法があっていいんじゃないかということを、打ち出したのが、点字という触覚文字の大木は一つの特徴です。 で、もうひとつの特徴は今回の点字の展示でも紹介されているように、最初は12点の点字だったり横長の点字だったりするんですけども、最終的に落ち着いたのは6点で文字を表すと。 言われ古されていることですけども、6点っていうのは本当に指先に大きさにマッチするものでありまして、6点の組み合わせでいろんなことが表わせる。日本語の仮名も表せる。英語も表せる。数字も表せる。記号も表せる。ということで、ブライユとしては12店あったものをしぼりにしぼって、最終的に6個の点にたどりついたわけです。 だから材料を減らしていくという発想。これだから今の時代っていうのはまったく逆で、材料を増やそう増やそうという発想に行くわけです。 例えば僕もついつい面白くて使いますけども、携帯でメールを書いたリスト気に絵文字と可たくさん出きて面白いですけども、文字だけじゃ飽き足らず絵文字を使ってみたり。まあとにかく今の世の中というのはいろんな選択肢があるということが豊という事になっているわけです。色々増やそうと、大学の例えば、一般教養の科目とかもどんどんいろんなものが開講されていると、やっぱり充実した大学だというイメージになるわけですけども、そうやって数を増やそうというのはまさに近代的な発想ですけども、点字っていうのはまったくその逆で、ずーっとこうしぼっていこうと、でもしぼったたった6個の点だけど、そこから今日の言葉で言うと宇宙、森羅万象といいますか、この世のあらゆるものをその6点で表現するんだという事を打ち出したのがルイブライユさん。 ですからその常識、線であらわすという常識をぽんと飛び越えた斬新さであり、材料を少なく絞っていく、でもその少ない材料からよりたくさんのことを表現するという創造力にフォーカスしていったというのが点字の魅力だと思います。 そういうふうに考えると、先ほど言った絵文字を使ったりというのもそうだし、まあもともと言ったように点字っていうのは表音文字で発音どおりに書いていたといいましたけど、うちの民博の初代館長の梅沢忠雄先生は最後までローマ字論者で、漢字が嫌いで日本語はローマ字で表記すべきだって言う持論を持っててなかなか受け入れられなかったんですけども、梅沢先生は最後まで、今みんなパソコンを使ってローマ字入力をしてるってことはローマ字表記に近付いてることだというふうにおっしゃってましたけど、もう少しその日本語の表記、ローマ字を今から使うっていうのはどうかわからないですけども、点字の表記法なんかもからめて日本語の表記の仕方なんてのを考えていくなんてことがあってもいいし、またその点字というものの点で文字を表す、そして材料をしぼっていくっていう考え方は、結構視覚障害者用のもじっていうものを超えて、今の生き方っていうものに通じてくるものがあるんじゃないか、っていうふうに考えてます。 で最後にですね、もうやめないといけませんが、一番最後のところに触る文化を発信する点訳サークルの新たな役割とか、大学と博物館の連携により、多文化共活社会を作るとか、 わけのわかんないことを書いていますが、ポイントは、点訳サークルの講演会ですから、サークルの方、若い方へのメッセージということで終わりたいんですけども、forからfromということです。 従来の点訳サークルっていうのは先ほど僕が話したように、視覚障害学生の学習支援、公的保証がされるまでは学生、サークルが視覚障害学生の教科書を点訳するんだという事で存在価値があったわけですし、実際僕を含めて多くの視覚障害学生がその京大点訳サークルを含めて各大学のサークルのボランティア活動に支えられて卒業してきたわけです。 今日おこしのOBの方々も、京大の学生はいなかったと思いますけど関西地区の他の大学に学ぶ視覚障害学生の教科書なんかを点訳してくれたメンバーがいると思います。 みなさんご存じの通り京大のサークルっていうのは伝統的にやっぱり力があって、もしかすると僕がいた時期が一番力がなかったかもしれませんけども、一昔前はフランス語の辞書なんかを点訳して、その辞書は今でも、今まあネットで辞書が使えるようになったりしてますけど、点字の仏和辞典というものを作るのに、かなり京大のサークルが貢献したということがありますけど、そういう意味ではまさにfor the blind.と言いますか、視覚障害者の為に役に立つんだ、視覚障害者の学習環境を整えるということで非常に活動理念が明確でしたし、そこにボランティア精神というものが育成されて、非常に素晴らしい活動をずっと展開してきたわけです。 ところがまあ冒頭で言ったように、現在for the blindという事で言えば大学の支援室がある程度のことはしてくれる、そして学生本人もテキストデータなんかをスキャナを使って自分でテキストデータを作ったりとか、あるいは大学のサークルに頼らなくても地域のボランティア、さっきぼく対面朗読の話しましたけど、そういう地域のボランティア組織っていうのもかなり充実してきてますし、いわゆる主婦層を中心に、かなり、子育ての終わったしかももう大学を出た優秀な主婦たちが、ボランティアとして視覚障害者の学習支援をしているという状況で、じゃあ大学のサークルは何をしたらいいのかと。 このへんはまあ現役の皆さんから是非ご意見を伺いたいとこですけども、正直言って昔ほどforという意識での活動というのが中々しにくいという時代になっていると思います。 何度も誤解が無いように言いますけども、大学のサークルがちょっと元気がなくなってforの意識を持ちにくくなっているというのは、基本的にはいい時代なわけです。 本来は大学が保証すべきですし、地域にボランティア活動がどんどん開かれていくというのは、それだけ日本の社会が成熟していることだと思うんですけど、じゃあ今のサークルは何をしたらいいのか。 そこでかなり画伝維新になりますけども、僕が言いたいのは、触る文化を発信するという事です。 発信するっていうのは先ほど言った共活の活、活かすという意味ですけど、ですからforというよりfrom、点訳サークルから発信する、視覚障害者から発信するということです。 で、何を発信するかっていうと、先ほど後半時間配分ミスというかだらだらお母さん生きてて良かった話をしてたもんで時間が無くなりましたけど、僕はずっと博物館で触るという事にこだわって今活動してますけども、その触るという事でいうと、点字っていうのは触るっていうことをつきつめていって生まれた文字だと思いますし、よく言うんですけど、触るっていうのは何も視覚障害者だけじゃなくて、博物館いろんなものに触れたらみんな楽しい訳です。 ただ、やっぱり目で見るっていう生活を中心にしていると、中々触るっていうことをしないもので、むしろ目で見ている人達に触るっていう事の大切さであり面白さ、奥深さを伝えていくというのを、今の僕自身の博物館の活動の中心においてるわけですけど、点訳サークルの場合は、点字っていう素材、先ほど短いですけど二つの特徴言いましたけどそういう素晴らしいものを持っているだからこれはもともとはそうやって視覚障害者の為の文字ということで作られて本来の点訳サークルはそうやって資格書会社の為の本を作っていたわけですけど、もう少し点字本来の持っている特徴、僕はそれを点字力という言葉で言っていますけど、そういうものを積極的に発信していく、視覚障害者用の文字、視覚障害者の為の文字というよりも触るっていうことから生まれたもうひとつの文字であると、だから目の見えない人たちが特別に使う文字ではないんだという風なことを積極的にアピールしていく、なおかつ今回の教室展示でも、色々触って理解する物という教材がおかれていましたけども、あれは基本的には目の見えない人視覚障害者の為に作られたものですけど、そういうふうなことで、僕の言い方、触常者と健常者という言い方をすると、触ることを常としている人たちの為のものというふうに考えると、もしかすると健常者見ることを常としている人たちに、何かしらインパクトというか、気づきを与えることが出来るんじゃないか。 そういうふうなことで、forからfrom、まあこれはyou I ask、じゃあ具体的に何をすればいいんですか、って言われると僕もアイデアないんですけどもよくありふれた言葉ですけどもピンチはチャンスで確かに今点訳サークルメンバーが減って、活動目標もややあいまいになって、何を点訳すればいいんだ、また、対策は人数が少ないから点訳が出来なくなっているみたいなことがあるかもしれないですけども、もう少し点字本来の面白さであり豊かさみたいなところを一般の学生サークルだったら一般の京大生にアピールしていく。 そして今までは多文化共生社会って言われたんですけど、僕はそれを今日の言葉で共活っていってますけど、見る文化に対して触る文化というものがある、そういういろんな感覚を使った文化というものがある。 今まではあまりに視覚、見ることに偏り過ぎていたので、それを修正していくようなことを、点訳サークルからなにか発信していくことが出来れば、また新たな活動目標みたいなものが見つかるんじゃないかなという気がします。 そしたらだいぶしゃべりすぎましたが、後半はかけ足になってしかももうちょっと面白いネタがあったんですけどちょっと真面目な話になって、ちょっと面白くなかったかもしれないんですけど、一応時間がまだありますので、質問、コメント、現役の方ちょっとそれは違うんだとかいうことがあるかもしれないので、 いったん橋本君の方へお任せします。 では、とりあえず、ありがとうございます。

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